過疎地に住む君へ、都会のススメ

人がいない農村の「静けさ」は、生活する上で精神的には楽だ。
しかし、人の多い都心の方が自分の立ち位置がわかる。
人がいないと議論が発展せず、話題も限られてしまうから…。

先日の「ザ・ノンフィクション」というドキュメンタリー番組では、東京の狭い賃貸で暮らす芸人を追っていた。
同世代の若者や同じ志を持った人々が集まり、夢に恋愛に右往左往する場面が多く映っていた。
このシーンは農村のような過疎地に暮らす少年少女には、悶絶するほど輝かしく見えただろう。
なぜなら、成人を迎える頃には「同世代」の多数は農村から出ていくからだ。
残るとしても社会的には最年少の立場となり、「同世代」はほとんどいなくなってしまう。
普段の日常は年配者の顔色を伺いながら、いかに真面目に働くかを考え、年配者の意見に同調することに苦心するのだ。
だからこそ「ザ・ノンフィクション」の多くの場面は、過疎地に暮らす若者にとって強烈な刺激だったことだろう。

「何かを作る」という仕事には、同世代がいる場所に身を置くことが重要だ。
過疎地でのクリエイティブな労働は、経験値がなければほぼ無理で、独りよがりになりやすい。
都心で同じ志を持つ人々のリアルな言動を見聞きすることが、頭の運動になり、活力(刺激)にもなる。

一方、クリエイティブでない労働、つまり「作業の連続」である労働に従事するのであれば、田舎の生活のほうが甚だラクである。
周囲がそのような生活に特化しているので、外界からの「刺激」が少ない。
「保守的」であるがゆえに、変化すること、それに対応することを考えなくても良い。
こうして農村を離れた同世代との格差が広がるかもしれないが、無理に人間関係が過多な都心で疲弊する必要もない。

今日、僕は久しぶりに電車に乗っていわゆる都会に出た。
過疎地とは違い、若者とりわけ学生も多い。
若者が多い場所に行くと、自分の立ち位置がわかる気がする。
ファッションやTPO、わざと崩したアレンジなど、彼らがどのようにトレンドなどを踏まえ、どのような格好をしているのかが見えてくる。
「多様性」と叫ばれる昨今、過疎地では見られない服装も新鮮だ。
それは個人がファッションによって「個性」を主張しているからで、田舎ではそうした主張はあまり受け入れられない(そもそも若者主体の「主張」があまりない)。
都会では同世代も多く、服装や30代ならではの体型、あるいは、どのような仕事に就いているのかなど、想像すら膨らむ。

つまり、都会に出ることで自分の「小ささ」や「思考の狭さ」が浮き彫りになる。
これは、海外に行って現地の人々に揉まれ、考え方が変わるのと似ているかもしれない。
田舎に住んでいても、定期的に都会に出ることが重要だと僕は考える。
都会を歩くことで、人間の営みや社会の動きを肌で感じ取り、思考の幅も広がるから。

この記事を書いた人

名無しのユータ

「読書が趣味」という訳ではないし、遅読で読解力も低い。けれど、読書を続けることでモノを考える力がやっと人並みに得られると感じ、なるべく毎日、本を紐解いている。
趣味はランニング、植物栽培など。