「深いハナシ」について身も蓋もないハナシ

前回、「深いハナシを嫌う人が地方では多かった」という話を書いた。

この話題には続きがあって、デザイン事務所の社長との議論はここからさらに白熱した。
深い話をしないことで何が起こるのかに話題は移り、僕らはこう結論付けた。

結局、あらゆる方向から物事を見ておかないと、同調圧力に流されて大きな代償を払う

ということ。
これからはどう考えてもAIの利用が爆発的に増加する。
そしてAIはネット上のあらゆる情報を飲み込み、仮想空間のみならず、現実世界をも我が物顔で跋扈することになるだろう。
AIの生成した情報が「世間」を作る可能性は大いにある。
とはいえ、AIは「正解に近い情報を吐き出す」のであって、実は偏った意見を述べることは少ないのではないか…。
であるならば僕らは、法律を逸脱しない範囲で、且つ世間の考えとは若干、ほど遠い思考を繰り返すことによって、ほんのちょっぴりAIの解答から逃れることができるのではないか…と考えた。
つまり、特にクリエイティブの世界では、世間やAIの「模範解答」からズレた答えを探さなければ、生き残れないのではないか?というのが、僕らの結論だ。
ズレた答えを導き出すためには、世間やAIが出しそうな答えを予め予想することが必要になる。
だから多角的に物事を見ておかなければならない。
もっともズレた考えを持つことは、クリエイティブ業界ではAIが出てくる以前から当たり前の思考法だったし、結局それかよ、と僕らも笑いあった。

ただ、群馬の山間部に居住してからは、こうした「変な考え」「ズレた考え」を忌避する傾向に僕は危機感を覚えていた。
こうした考えは「地球星人」を読んだときにも思い至った。

たとえば、最新の情報を取り入れながら、アイディアを駆使する職業が、中山間地のような農村部で存続するのは不可能に近いでしょう。 なぜならアイディアを生むこと自体、世間とは違う考え方を想像することでもあり、もしも農村のなかで長年培われた価値観と相反するのであれば、大きな軋轢を生むことは間違いありません。 そうしたアイディアは、アイディアを生み出す多くの人たちとのコミュニケーションのなかで生み出されることも多く、古い習慣を守り、新しい価値観を棄てるコミュニティの人間に、生み出せるものはさほどありません。 アイディアを持っている人間は農村を離れ、みな都心へ出て行ってしまったのですから。

引用元: 「農的共同体」すら壊滅した農村部に起こる、奇妙な生活 – 単なる読書録

外部からの変革圧力を世間の同調圧力によって、何事もなかったかのように相殺し、日々を過ごす地方の高齢者や、その役人、政治家たち。
いまも受け継がれる昭和の感覚が、住みにくい街へと徐々に影を落とし、若年層の負担だけでは賄いきれずに高齢者がその役割を負うことに。
結果として、新たな世代を構築することができないままに歪を放置し、悪循環を断ち切れない。
いずれ学校は消失し、病院は閉鎖。
銀行やスーパーは撤退し、行政サービスは廃止され、インフラは停止するだろう。
強制的に山を下りる「廃村」「廃町」があらゆる地方部で起こると僕は考えている。

その根幹はあらゆる角度から街の状況や今後の成り行きを考えきれなかったからこそ。
起こるべくして起こった、いわば人災だとも言える。
考えきれない政治家を選んできた、考えていない住民こそが元凶だ。

かといって、深いハナシをするように教育機関が仕向けるのも難しい。
こうした「議論」に耐性を持ったのは、20代前半の頃に「そうした話しかしない」看板会社の社長に出会ったからなのだけれど、僕もはじめはストレスフルだった…。
なぜか「深いハナシ」に耳を傾けることができるようになったのは、根気強く「深いハナシ」を続けてくれる看板会社の社長の存在があったからだろう。
ならば僕がそのような存在になれるかといえば甚だ疑問で、それほどの話術もない。
伝え手・受け手にもそれぞれ得意不得意、適正のようなものもあるように思う…。

嗚呼、身も蓋もない。
つまりは近くに誰が存在するか…が重要なのだろう。
そりゃあやっぱり、地方から都市部に若者は流れてきてしまうよ。

この記事を書いた人

名無しのユータ

「読書が趣味」という訳ではないし、遅読で読解力も低い。けれど、読書を続けることでモノを考える力がやっと人並みに得られると感じ、なるべく毎日、本を紐解いている。
趣味はランニング、植物栽培など。