僕は過疎地に移住して以来、自分がどれほど「食」に関して無知だったかを痛感させられた。
昔の僕は、食べられるものとそうでないものの区別が、あまりにもお粗末だった。
以前、このブログでこんなことを書いた。
少し痛んだだけの野菜や、泥にまみれた野菜を忌避するひとが僕の周りには結構多くいる。 卵に関しても、こうした理由があるにも関わらず、数日の賞味期限が過ぎただけで捨ててしまう人を僕は「バカだな」と思う。 幸いにも東京圏出身の僕でさえ農村部に単身住まうことで、こうした知恵に恵まれた。 生まれ育った場所で、生きるための知識や経験はだいぶ変わるのだろう。
引用元: タマゴはそう簡単には腐らない – 単なる読書録
自分で「食べるもの」をつくる人、あるいはその生業に近い人たちは、自ずと「食べられるもの」の知識が深い。
経験値も高い。
特に、そうした家族が身近にいると、幼少期から適切な判断を学ぶことができる。
しかし、都市化が進み、スーパーなどで美しい農産物が手に入るようになると、「食べられるのに食べられないように見える食べ物」を忌避する人も出てくる。
僕も以前はその一人だった…。
農村思考と都市型思考
農業の世界に足を踏み入れてから、規格外の農産物をいただく機会が増えた。
僕は独身だから、一人では食べきれないことも多く、帰省した際に地元である神奈川県の友人知人に譲ることもあった。
ある時、ジャガイモを渡した知人から「穴が空いてたから捨てたよ」と言われた時には、正直ショックを受けた。
僕は穴が空いていても、その部分を取り除けば食べられると思っていたし、そんな野菜をすぐに捨ててしまう感覚がその時には理解できなかった。
しかし、胸に手を当てて考えてみると、僕が「農」に近しい距離にいることで、少なからず「農家」やそうした生業の人たちの「思考法」が身についたから起きてしまったことだと気がついた。
これを僕は「農村思考」と「都市型思考」と呼んでいる。
この件は他にもある。
実家から「ドロネギなんて持ってこないで!」と怒られたことがある。
「泥を捨てられないから」「台所が汚れるから」と、その言い訳の一つ一つが潔癖で、家に汚物を入れることを許さない観念がそこにはあるのだと思った(かといって実家が綺麗というわけでもないんだけど)。
古民家を見れば、庭があり、玄関があり、土間があり、そして床の間があるという具合に、ソトとウチとの境界が緩やかに移行するのが分かる。
しかし、現代の住宅は扉を開ければすぐに清潔な玄関が現れる。
なんなら集合住宅では、玄関は1階のエントランスであって、もはやコンクリートの歩道から直接繋がる玄関という概念すらなかったりする。
そこにドロネギが突如として現れれば、戸惑うのも当然のことか…。
何が言いたいのかといえば、現代は「土」が遠い。
特に都市部はあたり一面がコンクリートに覆われ、土の存在を身近なものとして覚知することができない。
さらに土を一方的に「穢れ」と認識し、その侵入を極めて忌避する傾向にある。
結果として、清潔な食品が尊ばれ、徹底的に洗浄され、ビニルに包装され、可食部のみが優先的に販売される農作物が重宝される。
それ以外は単なるゴミであって、本来、可食部として認識しているものが、食べられないと判断された場合には徹底的に処分される。
その基準は恐らく、日頃手にしているそうした食品を元に判断されているのだろう。
ゆえに、自分でつくり、収穫し、調理する農村地域の住民と、店頭に並ぶ農産物を「商品」として認識する層との違いは、こうしたことで明確に生まれてしまうのだ。
これが「都市型思考」が「農村思考」と乖離する点でもあろう。
コメと精米と僕らの認識
僕も都市型の人間だったので、ネギの緑色の部分を食べるという発想はなかったし、少しでも賞味期限の切れたものを食べることを避けていた。
ところが、僕のいた過疎地では、そうしたものでも変わらずに食べる。
さすがにニオイで判断してダメなものは反射的に捨てるけれど、食べられると判断する基準は、都市部のそれに比べればまことに緩やかではある。
それは子供や孫にも譲り受けられていて、本来捨てられるような食材でも、どのように調理すれば美味しく食べられるのかも、誰しもが大まかには熟知している。
その調理法は揺るぎない家父長制の、The亭主関白でさえも、まるで自分が作っているかのように迫真の講釈によって伝授してくれる。
実際は奥さんがせっせと時間をかけて調理している場合が多いのだが…(笑)。
そうしたコミュニティにいると、必然的に食べられるものと食べられないものの基準が緩やかになり、なんなら都市型の人が食べないであろうもののほうが、実は天と地がひっくり返るほど美味いということも知りうる。
旬の魚や山菜などがその代表例で、その日のうちに調理された食材の美味いこと、美味いこと。
農村にある「すぐそこらへんにある食いもん」は、だから都市部には回らない。
だって、採った人間が食べちゃうから。
過疎地に移住してからの僕は太る一方だった。
「私は米を買ったことがない」発言の波紋
2025年5月19日ごろから、コメ価格の高騰で喘いでいる国民のもとへ、農水大臣が「私は米を買ったことがない」と発言して非難の声があがっている。
全国のスーパーでのコメの販売価格の平均は、政府が備蓄米の放出を始めて以降も、去年の同じ時期の2倍程度の高値が続いています。
江藤農林水産大臣は、18日に自民党佐賀県連が佐賀市内で開いた「政経セミナー」で講演し、精米せずに玄米のままであれば備蓄米の流通を加速できるという趣旨の話をする中で、「私はコメは買ったことはありません、正直。支援者の方々がたくさんコメをくださる。売るほどあります、私の家の食品庫には」などと述べました。
そのうえで、政府の備蓄米の放出に関連して、「これまで3回行い、31万トンを出したが、価格が下がらない。大変責任を感じている。流通は難しい。たくさん出せば、値段が下がるというわけではない」などと述べました。
引用元: 「米は買ったことない」江藤農林水産大臣 修正し撤回 石破総理と会談後に陳謝も | NHK | 農林水産省
地方に住まう人間で、ある程度広い交友関係があるのなら、そうした貨幣を伴わない農産物の交換があるのは理解できる。
以前、ブログにも書いた通り「評価経済力」が高いからだ。
むしろ、こうした権力者に農産物を譲ることすら、農家にとってはステータスであり、さもすれば利害関係が一致する場合もあるだろう。
この点について僕は、当然あることだろうと認識している。
が、次の発言で「コメを精米する前に妻が黒い物体を取り除く」という発言の意味を僕はいまいち理解できなかった。
なぜなら、江藤農水大臣の発言をノーカットで観た際に、その意図は「備蓄米を玄米で流通させれば、精米する手間が省け、国民に安く素早く届けることができる」という趣旨のものだと感じるからだ。
にも関わらず、
- コメに混ざる黒い物体を取り除くクダリはなんの意味があったのだろう。玄米で売りたいというのなら尚更のこと。逆に言うと石などの異物が入るほど、機械には頼らない、手間ひまをかけて栽培しているコメである可能性もあるなとは思った。
- 玄米で売る場合、コイン精米機の数には地域差がある。それに5kgの玄米を精米機まで運ぶのは自動車があれば良いけれど、無いのなら大仕事だ。
- もっと言えば、玄米は精米するから農薬の成分を除去できる効果もあるわけで、顔の分からない生産者が作った、しかも年月の経ったブレンド米を玄米で食べさせようというのはちょっと…。
という、意図の分からない発言によって現在、石破総理をはじめ発言の影響が飛び火している
そもそも、現代では、玄米を目にしたことのない人間も存在するのではないだろうか。
僕もそのうちの一人で、過疎地に住んでから農家さんから直接コメを買い、初めて玄米というものを目にした。
そしてコイン精米機を使ったのも、遅ればせながら齢30を過ぎてからのことだった。
コイン精米機を使ってみよう
コイン精米機は人生で一度は使ったほうが良い。
分搗き米といって、精米歩合を調整できる機能がついていたり、コイン精米機が「機械」であることを認識させてくれるほど大きく揺れるのは凄まじい体験だ。
「コイン精米機」は「コイン精米室」ではなく、まさしく「コイン精米機」なのだ。
これは実際に使ってみて初めて感じることだろう。
さらに、投入した玄米よりも精白された白米の量の減り具合にも驚く。
精米歩合によっても変わるのだろうが、一般的に5kgの玄米は4.5kgの白米になるという(参考:https://www.iseki.co.jp/seimai/qa/)。
そのため、たとえ玄米を5kgで売った場合、白米と比べ、多少なりとも価格が手頃になったとしても、0.5kgの糠が削られることを考えると、果たして本当にお得なのかは一度、立ち止まって考える必要がある。
さらに、精米するのにも最低100円は発生するのであり、玄米で流通させたからといって、まやかしに映る場合もあるのではないかと僕は危惧する。
玄米を流通させればひとまず解決になる…と考えているのは、もしかしたら「都市型思考」であって、「農村思考」からは程遠いものなのではないかと思う。
つまり、江藤大臣の生い立ちから、身近にこうした農村との関係が縁遠かったのではないかと思うに至るのだが…。
2025/05/24:追記
その後、江藤農水大臣は辞表を提出し、公認は小泉進次郎氏が農水大臣を務めることとなった。
江藤氏の退任前のコメントを読むと、やはり備蓄米を玄米で放出することの強い意志があったことが分かる。
(後任大臣に求めることは、と問われ)後任大臣は私ではありませんから、私の政策をそのまま引き継がないといけないことではない。新たな発想や方法論は出てくるかもしれないが、とやかく言うつもりはない。 ただ、4回目の(政府備蓄米)放出を控えており、マーケットと戦うことの困難さを痛切に感じている。工夫はしたが、なかなか結果が出ていないことは自分としても心苦しい。非常に焦りも感じ、無念の思いはあります。これから、4回目(の入札)。これを言うとまた怒られるかもしれませんが、ぜひ(放出分10万トンのうちの)6万トンの枠を消化するには、すべて精米するのは難しいです。小売りでも、大手スーパーでも、玄米での販売にぜひ踏み切っていただき、お手数ですが、消費者の方々には、町の精米所、東京にはなかなかないかもしれないが、地方にはたくさんある。コイン精米所を使ってほしい。精米したてのコメは大変おいしい。そういった工夫も消費者の方にしていただき、コメの流通を早くする。私が先週買ったコメは税込みで(5キロ)3480円。安いとは思わないが、平均価格からは、はるかに安い。平均では高値が続いているが、さらに値上がりしたという評価しかできないが、安いコメも備蓄米放出で一定程度は進んでいるのも事実。それがどこに店舗に行ってもあるという状況ではない。なんとか解消すべく4回目の(放出に向け)工夫を行った。実効性を発揮することを期待している。 今回の入札の8割はいわゆる古古米ですが、味覚的には全く問題はありませんが、常識的には6年産米よりは市場価格は当然低く評価されるべきだと思っている。価格に介入するのは不適格ですが、できるだけ安い値段で、集荷業者の方々も落札していただきたいというのが、最後の私の切なる思いです。
引用元: 【ほぼ全文】コメ失言で辞表の江藤農相「7カ月懸命に働いた」アピール「正直やらせてほしかった」 – 社会 : 日刊スポーツ
抜本的な解決のないままに、備蓄米を玄米で放出するといういわば荒業を遂行しようとした江藤元農水相。
現時点では小泉農水相の手腕に注目されるが、彼はJAの影響力の弱体化を推し進めると目される。
今後の動向に注目だ。