僕が岡田斗司夫氏を知ったのは「評価と贈与の経済学」という本を読んでからだ。
日本経済は長らく停滞し、出口の見えない不況が続くなか、僕らは低賃金で労働を請け負っていた。
それは今も変わらないが、先行き不明な20代そこそこの僕は、岡田氏のこの本を何度か読み返していた。
その度に新たな気づきがあり、社会の変化を予見する岡田氏の洞察力に魅了されていったのを覚えている。
性格の悪い偏屈な僕は、貨幣を伴わないで評価されることがどれだけ難しいかよく理解しているつもりだ。
人間関係の機微や、他者からの評価の複雑さを痛感してきた経験が、そう思わせるのだろう。
しかし、そうした社会は確かに足音を立てながら確実に僕らの近傍にやってくる。
その足音は、時に期待を、時に不安をもたらす。
そんな昨今、久しぶりに手にしたのは、「僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない」という本だ。
出版されたのは2014年とのことで、いまから約10年前になる。
当時の僕には衝撃的なタイトルだったが、今振り返ると、その予見は徐々に現実味を帯びてきている。
現在の岡田氏は、この本で書かれる「評価経済」のことを大きく部類して「ホワイト社会」と呼んでいる。
SNSなどが発達し、簡単にアラが出てしまう現代。
こうした行為は時間が経ってもウェブ上などに残り、デジタルタトゥーとして半ば永遠に人々の記憶に刻まれてしまう。
そうでなくとも、ちょっとしたことがネットに晒され、炎上されることから、いかに「ホワイトであるか」を求められる社会になる…と予測している。
いま、僕はこうしてネット上にあらゆる文章を書き記しているが、その段階で僕は既にホワイトではないだろう(笑)。
話がそれたが、この本で重要なのは本の中盤からだ。
いまの「ホワイト社会」に通ずる予測を、岡田氏は「未来格差」と呼んでいる。
つまり、貨幣を交換することによる経済はその効力を失い、いずれ「評価経済」がやってくる。
それに備えるためには「良い人」であることが望まれるというのだ。
お金がない世界とは、「お金がゼロの世界」ではありません。「お金があって当たり前」「お金が必要にちがいない」という固定観念や常識が通用しなくなった世界です。お米の例でいえば、「お米をお金で買う」という人と、「お米はタダでもらう」という人の両方が共存している世界。
この世界では「お金持ち」は決して優位な人ではありません。お金でお米を買う人は「お金しか手段をもたない、かわいそうな人」です。タダでお米がもらえる人は「お金を払って買うこともできるけど、その必要性がない人」です。
優位なのは「有益なつながり」が多い人。すなわち「評価の高い人」です。 もちろん「お金も評価もある人」がいちばん強いに決まっています。でも「評価の高い人」はお金を集めやすかったり、そもそも、お金なしで生きていきやすかったりします。
逆に「お金はあるけど評価の低い人」は、いつまでも定価で「二番目のお米」を食べつづげることになるのです。
お金がいらない世界の到来を実感していて、徐々にその世界へと足を踏み入れている人もいれば、まったく理解できず、準備や心構えが何もできていない人がいます。 両者の差を、僕は「未来格差」と呼んでいます。来るべき未来を知っているか、実感しているかどうかで格差ができてしまう。いまは小さ くても、その格差はどんどん拡がります。ついには、貨幣経済上での格差以上に拡がることでしょう。
貨幣経済と評価経済の違いを知り、お金が唯一無二の正義であった時代の終焉を嗅ぎ取 って、それに対応しようとするかどうか。数年後、この点において大きな格差が現れるでし ょう。だからいま、この変化を嗅ぎ取ったお金持ちたちは、現金を評価に換えようと必死になっています。
経済誌の記者たちは、「評価経済とは何か」と僕に聞きにやってくる。
お金儲けばかりに走り、社員をこき使う会社が「ブラック企業」と名指しで批判されるの も、貨幣経済での利益ばかり求めて、評価経済の利益を軽視しているから。
「未来格差」はすでに、こんなところにも現出しているのです。
これには僕も半分同意で半分共感できない点がある。
同意する点は、「職」が多様化し、さらにはAIなどの人工知能が発達した時点で労働の多くが機械に取って代わられてしまうということだ。
そのときに、「良い人」でない場合には職にあぶれ、貨幣という交換手段を持てなくなる。
換言すれば、嫌な奴のくせに仕事もできない…ということになるだろう。
こうした流れはゆっくりと、けれども確実に迫ってきていると僕も思うし、だからこそ、AIに代替されない能力や、あるいはコミュニケーションスキルを磨く必要がある。
ただし、同意ができないのは、貨幣の交換はそう簡単になくならないということだ。
人類が開発した発明品のなかでも、貨幣の重要さは最大級のものになる。
信用さえあれば誰とでも交換ができ、その信用は必要なコミュニケーションを省いてくれる。
つまり、モノとモノを交換する際に生じる面倒なコミュニケーションや手続きを、貨幣の交換だけで簡単に済ますことができる。
そこに言語の違いも大きな障壁とはならない。
これは貨幣の流通が正常に行われているという状態のうえでの話であって、戦争や経済崩壊などの国家として危機的な状況に陥った際にはその限りではないだろう。
極限状態になれば、貨幣はただの紙切れにしかならず、それこそ岡田氏のいう評価経済が究極的に成り立つ。
おそらく岡田氏は、そうした状況も勘案したうえで執筆をしているのかもしれない。
そして、評価経済力の高い人間ほど、この貨幣を集積する能力は高いだろう。
裏返してみれば岡田氏の言いたいことは、「良い人であると生活が楽になるよ」ということかもしれない…と僕は読んでいる。
つまり「富の集積」の方途はなにか…という問いでもある。
この解釈は、シニカルでありながらも、ある種の真理を突いているように思える。
そして、本書の後半にもこんな鋭い指摘がある。
長くつきあっているうちに、相手の性格をよくよく知ってみたらいい人だった、というのは、見た目至上主義社会と相容れません。たとえ、真実はかぎりなく客観的に見て「いい人」だったとしても、第一印象で「いい人だな」と思ってもらえなかったら損をするんです。
(中略)
「とっつきにくいけど、じつはいいヤツだ」というのは、これと同じように、あらゆるハンディキャップを乗り越えて、それを引き受ける根性があるのなら否定はしません。けれども、その選択はかなり効率が悪くて損なのです。 「いつデブ」のなかで、「今まで『デブだけど、その見た目・印象を跳ね返すべく頑張ってきたあなたの努力』は、やせさえすれば数倍の評価になって帰ってくるのだ。が、デブのままでは、どんな実績をあげようと、『デブというキャラ』の中でしか解釈されない」と書きました。
パッと見の性格が悪いと、ものすごく損をします。先ほど話したコンテンツやコミュニティの価値が、自分が本来もっているものから大幅に値引きされてしまうのですから。けれども、見た目をよくするだけで、ずいぶんとラクに生きられるようになります。
昨今のInstagramやTikTokなどのSNSをみるにつけ、「外見至上主義」が高まっているように思う。
特に女性は顕著だ。
毎朝の化粧に時間をかけるのなら、娘のためにも整形を受けさせたい…という報道番組をみたことがあるが、もはやその価値観の進度を僕らは正しく認識しておかないと、大きな過ちを犯す。
整形が悪だといった思想が、コスパ・タイパなど、経済的な価値観と結びつき、大きな転換点にきているようなのだ。
こうしたことを面と向かって書く著者は岡田斗司夫氏か、橘玲氏くらいかと思う(笑)が、整形肯定派の増加もそうした背景があるのだろう。
マッチングアプリなどの普及も極まり、一瞬にしてその格差は「出会い格差」「恋愛格差」「結婚格差」として露呈してしまう。
それだけではなく、評価経済においての関わり、つまり人と人とが近距離で接するような状況下では、やはり第一印象は重要になる。
とすれば、「富の集積」に関わるがゆえ、印象操作はことほど左様に重要となるはずだ。
婚活に苦労した親類が、我が子の整形に積極的に取り組むようになる未来は僕は近いと思っている。
20代の頃に読んだこの本は、いまだあまり色褪せてはいない。
それはつまり、不況が続き、生きづらさの根本的な部分は変わっていないということだろう。
岡田斗司夫氏のこの本は、自己啓発書のように「あれをやれ、これをやれ」ではなく、理論を持って僕らに出口への問いを投げかけてくる。
この本に書かれていることを実践するのは、けっして容易いことではないが生きづらさの脱却への指針にはなるだろう。
岡田氏の本は、そんな僕らに、未来への希望と警鐘を同時に鳴らしているのかもしれない。