いま、「令和のコメ不足」という問題が連日ニュースで報じられている。
昨年の夏頃から店頭に並ぶコメの価格は徐々に高くなり、気がつけば昨年の夏よりも1.5倍から2倍にまで高騰した。
国民からの不満の声を受け、政府は備蓄米を放出するという策を取ったが、市場価格は下がるどころか上昇を続ける一方である。

しかも、その原因について農林水産省が発表する内容は、「転売ヤーのせいだ」「流通に目詰まりが生じている」「精米する過程で時間がかかる」など、あらゆる言い訳をしているように見える。
そもそも農業現場にいた僕からすると、農産物の「量」を測るのは難しい。
特に生産する前や田植えをした直後に「このくらいの量が穫れるだろう」と予測するのは極めて困難なのだ。
その年の天候や管理方法によって収穫量は大きく変動するため、見込みが変わるのは当然のこと。
おそらく農林水産省の試算は、最初の「植付量」と「収穫量」の違いを単に「生産量」としており、その差分を国民に説明するのが面倒だと考え、あるいは国民がそれを受け入れるとは到底思っていないため、理由のわからない説明を繰り返しているようにも感じられる…。
内田氏の『ローカリズム宣言』から考える
農業には「人手」が必要だ
そんな折、久しぶりに内田氏の『ローカリズム宣言』を手に取った。
僕は内田氏の農業観に賛同する部分もあれば、意見が異なる部分もある。
特にこれだけ資本主義が進み、拝金主義的な環境となってしまった現代において、そうしたシステムを手放すことには無理がある…というのが、僕のスタンスだ。
この本で重要なのは、農業という生業の周辺にある自然環境などを「制御・管理」していくには人手が必要であり、しかも、それに対しては対価が生じにくいという箇所。
この点については僕も同意見である。
人間が手を入れなければ荒廃が進んでいく農村では、絶えず誰かが「自然の侵入」を阻んでいる。
具体的には、草むしりや草刈り、果樹や樹木の剪定、水田の水管理など、あらゆる農作業によって「どこかの誰かが」自然の侵入を食い止めている。
だからこそ休みが少なく、自然の動きに合わせて人間が動いていく必要があるのだ。
ただし、もしも資本のある企業が農業に参入してきたときに、その役割を企業が引き受けるかどうかについて議論が及ぶ。
内田氏は、そうした企業は自治体などに金銭での解決を要求するだろうと述べる。
しかし僕は、そもそもそうした企業は、人手不足の中山間地にはやってこないのではないとみている。
棚田を想像してもらえると分かるように、中山間地はそもそも水田の一枚の面積が狭い。
そこに機械を入れようとしても移動だけで時間がかかるし、そもそも機械が入らない場所もある。
機械が入らない、入りづらいということは、それだけ人の手が必要だということであり、人件費などのコストがかかるのだ。
ゆえに、そうした周辺環境の整備を全自動の機械が昼夜を問わず行うか、あるいはそこに住まう誰かが賃金を必要とせず労働を行う状況が確立できたらの話であって、直近の未来で実現するのは難しい。
そう、結果的にその部分は「無償の労働」として誰かがその労働を負わなくてはならない…。
しかし、先述した通り、現代は拝金主義の蔓延した資本主義のど真ん中にある。
無償労働なんてとんでもないことなのだ。
だからこそ、こうした不足を埋めるために「徴農制」が検討される余地があると僕は考えている。
むしろAIなどの産業によって都市部での雇用が減少した場合、そうした産業に半強制的に送り込まれる可能性は高まっているのではないか…。
そうした人手不足の問題が(強制的にも)解決してはじめて、資本が参入できると僕は思う。
したがって、機械が絶えず農地を監視でき、リアルタイムに作業を行うことができるようになったとき、またはそのエネルギーの確保に目処がついたとき、水資源の豊富な山間地でも資本の参入が起こるだろう。
コメ不足の要因と過疎地の閉塞
さらにコメ不足に喘いでいる要因の一つに、「外国人が日本産の米を食べるようになった」とも言われている。
僕はコメ不足の極端な解決策の一つは、日本国内で産出されたコメは日本人だけしか食べることのできない、神聖なものとして定義するほかないと思っている。
天皇がコメをお手植えされ、稲作が日本人としてのアイデンティティの一つを形成しているとするのなら、輸出なんてもってのほかである…と。
しかし、日本国内の需要だけではまかないきれず、農家の収入が減っていったのも事実であり、先述した通り、資本主義という経済状況の中を生きると決めたからには、そうした変化も受容せねばならない。
そもそも過疎地には、過疎地になっただけの理由がある。
そこには時代の変化を受け入れられない何かしらの理由があり、だからこそ、都心への流出が止まらなくなったのだ。
考えるべきは、なぜ過疎地はこれほどまでに「閉塞的」なのかということ。
この「閉塞感」の内実は、恐ろしいほどに「プライベートがない」と感じるのだ。
濃密な人間関係を構築するには、他人のあらゆる情報を開示しあい、理解し、共同体の中で共有する必要がある。
その過程で個人のプライベートな情報は都市部のそれとは違って、ずいぶんと丸裸にされてしまう。
そうした自己開示がなされない外部からの移住者は、共同体にとっては異端者と見なされ、気味悪がられるのだ。
さらには、先ほどのように「自然からの侵入を食い止める作業」は共同体のみんなが行う作業であり、そこに「行かない」「会わない」「やらない」は存在しない。
こうした作業を引き受けない人間は、共同体の構成員として決して認めてはもらえない厳しさがある。
昨今、話題になっている消防団加入の問題点はまさにこの辺が絡んでいて、制度の存続・廃止だけでは解決しないものであり、ジャングルに住まう原生住民かのように、こうした共同体を仲間と過ごすという過程自体が「大人になることの通過儀礼」となっている。
精神的に成熟したから大人になる、ということではなくて、共同体に辛抱強く入り込んでいられることが大人になるための通過儀礼なのだ。
内田氏の「成熟した人間」像と現実のギャップ
「成熟」よりも「成長」
つまり、内田氏との見解の相違はここにもある。
内田氏は、国民が「大人になって(成熟して)、人とのつながりを強固にし、協力し合いながら生きていくことを模索する」ということを本書で述べている。
しかし、これができればいまの日本は、こんな状況になっていないだろう。
人類史上類をみないほどに情報システムが発展し、いつでもどこでもあらゆる情報を僕らは取得できるようになった。
それとともに人間の考え方が一瞬のうちに多くの人に流布することになった。
内田氏の言う成熟した人間とは、そうした情報にも惑わされない、確固たる人間を想定しているのであって、残念ながら、誰もがこのような人間像を踏襲できるわけではないと僕は思う。
そしてその「成熟した人間像」を習得するためには、人の多い都心へ向かい、揉まれることによって得られるものであり、人の少なくなった過疎地では得ることができないスキルである…とされてしまった。
個人の「成熟」よりも、カネを稼ぐための「成長」を求めるように価値観が変貌したのだ…。
さらには、地方の人間の方が、関係する人数が極端に少ないがゆえに、都心に暮らす人よりも個人が成熟しているとは言い難いと僕の経験からは思う。
地方では、セクハラ、窃盗、暴言・暴力…挙げればきりがないほど、社会的な規範意識が、都心に暮らす人々よりも薄い傾向にある。
これはある意味、濃密な人間関係を伴うからこそ許される面があり(「あいつはそういうやつだから」という認識が通用するため)、周囲の人間関係が希薄な場合であれば、逮捕されるか、非難されるか、いずれにしても社会的に受け入れられない状況に陥るだろう。
そうした「都心の(社会一般の)スタンダード」とのズレに気がついてしまった人々から、早々に山を降りていく。
さらに言うと、僕のように人間関係を構築するのが苦手な人間には、都心の方が住みやすい。
なぜ都心の方が住みやすいのかと言えば、煩わしい人間関係を極力省くように生活環境が運営されているからだ。
関係性が希薄な方が良いというスタンスで育った、あるいはそうした価値観を持って成長した人々にとっては心地が良いだろう。
地方、都会問わず、そういう関係性を望む人は一定数いる。
カネを得るために「成長」をしたい…
そして、ここからが本題。
こうして、山を降りた人が多くなり、若年層の人口は圧倒的に少なく、若い人がいなくなった農村はどうなるだろうか。
教育はまず都心で働けるよう、都心での労働に向けた内容に変化する。
さらに都心で労働するに足る「都心用の規範意識」や「ルール」を学ばせるのだ。
これは地方の濃密な人間関係とは相容れない。
大人に反抗することや、わがままを言うことを排除し、素直に行動し、できるだけ他人との付き合いを最低限に抑えることを重視する。
そうして子どもは「真面目に成長」し、やがて過疎地を去っていく。
それが都心の労働力を生産する過疎地の存在する意義であると、おそらく、過疎地に住む人々は皆、そう捉えているのだろう。
つまり、都心に向かい、「人並みに」賃金を得られる手段は、この過疎地には存在しないと、そもそも農村部の親が考えているのだ。
親の世代、さらにまた親の世代ですでに「カネを稼げなければ生きていけない」という価値観が浸透していて、地方で共同体を維持しながら暮らそうとする意識は到底、過疎地にはない。
だから、過疎地の教育は、むしろ郊外地の学校よりもシビアで、一クラスあたりの児童・生徒数も少ないので複式学級となり、比較的レベルが高かったりする。
そしていま起こっているのは、下手な郊外に居住する子よりも、過疎地出身の子のほうが真面目で優秀、さらに学習意欲も高い状況が起こる…。
きっと、周囲の目にいつも見張られているので、のびのびと育ってはいないのだろう。
「大自然に囲まれたほうがのびのびと子育てができる」というのは、こうした過疎地に住んでしまうと、実は難しい。
話をまとめると、地方では濃密な人間関係から確かに「成熟」が求められる。
他人と協働するなかで、自らの労働を無償で提供し、それでも文句を言わずに奉仕することが重要となる。
そしてそこには、確かに人間としての「成熟」に至る筋道がある。
個人主義のように、自分勝手に生きていくには難しいものがあり、一人で生きていくのは物理的にも無理だ。
しかし、都会では個々のスキルを高め、個人が「成長」しながら、経済に奉仕することが求められる。
ここに「成熟」と「成長」の違いがあると、僕は思う。
若者の「査定」について内田氏は巻末に書いているにもかかわらず(恐らくこうした論理を理解しているのにも関わらず)成熟を求めるのは矛盾をはらんでいると感じる。
今後の予測
で。
これからどうなるか、僕なりに考えてみた。
コメ不足を解消するにあたり、あるいは「解消するといった方便」として、海外からのコメの輸入量を増やそうとするだろう。
さらに平坦地では農地の集約化がさらに進むと思う。
生産しなければコメは売れないのであって、それが喫緊の課題だからだ。
リアルな問題だからだ。
人手不足を解消しようとするも、おそらく若年層はその他産業の維持で手一杯なので、「労働できない層」にある程度のペナルティを課し、こうした集約された労働場所で就労させようとする。
つまり、それは高齢者である。
年金だけでは暮らしていけない高齢者は、喜んでこうした環境に積極的に参加していく…そうした報道が今後、加熱するように思われる。
人間の成熟を考えるよりも、機械などによって過疎地を維持することの方が、結果は速く出てくるだろう。
対して人間を成熟させるのは、やたら時間がかかる。
内田氏の言うローカリズムにはおおむね賛成だが、この本に書かれているような状況になるようコントロールする必要はあるものの、地方の消滅が迫るギリギリの場面で、そこに住まう人々がどの手段を選ぶのか、という点で僕と内田氏との相違があるように感じられるのだ。
内田氏の理想郷は実現すべきだし、そうあるべき。
しかし、絶えず変化する生活を選んでしまった現代人には、もはや時間がない。
共同体の存立など、そんな悠長なことを言っている時間は残されていない。
まずは、生きていくために、カネ、カネ、カネなのだ。
ただし、本書はいつも通りに「内田節」が効いていて、単純に読んで面白い。
だからこそ、ついつい内田氏の論考に飲み込まれそうになってしまう。