最近、こんな記事を読んだ。
物価が上がれば老後の資金も上昇するという内容だった。
介護される側の「イス」は僕らにあるのか?
福祉サービスは輸出できない
高齢者が増えれば増えるほど、介護する側が増えるなければいけないのだが、少子高齢化によってその介護される側につける「イス」が減少するのは避けられない…。
そして、介護は「福祉サービス」であり、海外に輸出できる「商品」をほとんど生まない。
国内の福祉・介護施設等で人材が働く限り、そこで生産される商品はほとんどない…という論説はよく聞くことだろう。
にもかかわらず、介護人材の需要は高まる一方で、より過酷な肉体労働を強いられることになる。
介護される側にとっても、十分なケアを受けられなくなるリスクが高まっている。
これは、人間の尊厳に関わる重大な問題を伴うとともに、経済的にも外貨を稼ぐ労働力が内需によって消耗されてしまう。
人材不足は福祉・介護だけじゃない
しかし、問題は介護だけにとどまらない。
農林水産業、インフラを支える建築土木業、運送業などあらゆる分野でも、人材不足は深刻化の一途をたどっている。
これらの職業は、その国で人間が生存するのに必要不可欠なものだ。
食料を生産し、街を作り、生活を支える。
だからこそ、失くすことはできない。
しかし、若者たちがこれらの職業を避ける傾向にあるのも事実だ。
重労働で、時に危険を伴い、それに見合った報酬が得られないと感じているのだろう。
さらに厄介なのは、教育の問題だ。
各家庭から教育に費やす資金が枯渇し、教育費も高騰している。
大学進学率は上がったものの、その内実は厳しいものがある。
奨学金という名の借金を背負い、将来の可能性を狭めている若者も少なくない。
結果として、ある程度の教育費を支払える家庭の子供だけが、介護やいわゆるブルーカラー以外の職業に就くチャンスを得ることができるようになる。
これは、社会の分断をさらに深める要因になりかねない。
人工知能が手の届かないところを人間が…
以前僕は、このように述べたこともある。
これからの社会は、おそらく二極化していくと僕は考えている。 一方では、週休3日制を導入する企業がますます増えていくだろう。 人工知能が頭脳労働を担い、人間はAIの及ばない部分、つまり「物理的にモノを動かす」という作業を担うようになる。 そうなると、肉体労働が中心となるため、休養の重要性はより一層高まる。
引用元: 休みのない企業は負ける – 単なる読書録
これはあらゆる分野の企業において起こる現象だと僕は思う。
これからの肉体労働
肉体労働は悪いことじゃない…が
こうした状況下では、多くの人々が1次産業、2次産業などに従事せざるを得なくなる。
必ずしも悪いことではなく、むしろ、これらの産業の重要性を再認識する機会になるかもしれない。
僕ら農林業に従事したことのある人間にとって、職業の間口を広めることは重要だと考えているからだ。
狩猟採集から農へ移行した人間の生活を考えれば、どのような「生産方法」や「ライフスタイル」が人間にとって「最適」であるかは、多くを語らなくても理解できるだろう。
しかし、問題は職業選択の自由が奪われることだ。
さらに踏み込んで言えば、国がそうした職業にある種強制的に人材を送り込むことになるのではないかと僕は考えている。
徴兵制に踏み込む前に「徴農制」などを導入し、徐々に国民へ国のために働いてもらう素地をつくる…。
現在の社会構造と人口動態を考慮すれば、十分に起こりうるシナリオだ。
個人の自由と国家の必要性のバランスを問う難しい問題を提起することになる。
このまま社会が進んでいけば、未来の若者たちの中で肉体労働者の割合が増えていくことは避けられない。
しかし、ここで考えなければならないのは、「肉体労働者が増える」ということが本当に問題なのかということだ。
むしろ、あらゆる労働の価値を正当に評価し、適切な報酬と社会的地位を与えることが、真の解決策になるのではないだろうか。
僕たちは今、大きな岐路に立たされている。
この問題にどう向き合い、どのような解決策を見出していくのか。
それが、これからの社会の在り方を決定づけることになるのだろう。
技術革新や働き方改革、教育システムの見直しなど、様々なアプローチが考えられるが、果たして日本の労働観にあって解決策が見いだせるとは、僕はあまり期待しないが。