ここ数週間、ずっと晴れていたのに8月に入ってからは天気が怪しい。
日曜日からゲリラ豪雨が各地で発生し、どうやら今週は同じような天候に見舞われるようだと、天気予報で解説されていた。
夏の雨と揺らぐ決意
窓を叩く雨音を聞きながら、僕はいま走るべきかどうか迷っている。
靴下がびしょ濡れになり、足の裏でぐちゃぐちゃと音を立てながら走るあの感触。
顔に当たる冷たい雨粒と、それとは対照的な身体の暑さ。
気分によっては、ランニング中のストレスにもなり得る。
ランナーの葛藤
雨。
それはランナーにとっては非常に厄介な問題でもある。
つまり、雨によって走ることが出来ない…いや、これは語弊だ。
雨でも野外を走るランナーはゴマンともいるし、屋内のランニング施設に足を運ぶ者もいるだろう。
しかし、走ることに対してプラスの状況ではないようなランナー、近いうちの目標が見えなくなってしまっているような宙ぶらりんなランナーは雨によってその活動を制限させる。
「今日は雨降ってるし、走らなくてもいいよね」と。
たぶん、シリアスランナーならここでお叱りの声明を発するだろう。
もちろん僕の中にもシリアスな一面は存在して、どこかでは10キロくらいは濡れてもいいから走ってこいとは思っている。
最近良く感じるようになった腹の脂肪の存在感も、そのマイナスな要素に苛立ちを隠せない。
腹に脂肪だなんて、怠惰な生活の集積によるものだろうと僕は強く思うから、自分で自分を攻めているような状況だ。
だからウズウズしてしまう。
さらに先週の土曜日には近所の山へ走りに行き、翌日の日曜日には約1年ぶりにバドミントンクラブで汗を流した。
すると、猛烈な筋肉痛が襲っていて、歩くことすら困難を伴う。
普段、トレイルランニングをしたあとに若干の筋肉痛は残るものの、ここまで激しいものはない。
おそらく、必要以上に負荷が大きかったのだろう。
続けざまに負荷の大きなスポーツをやる身体にはなっていなかった模様だ。
ランニングと日常の境界線
そもそも、趣味の領域で練習している分には、別に走ることに重圧を覚えなくてもいいはずだ。
それがかえって自責の念に駆られるのなら、はじめから走らなくても良い。
…くらいに思いたいのだが、そうも行かないのが難しいところ。
日本人は勤勉だと言われるが、習慣化したものをある日突然、断ち切ることはかなり難しい。
走るというルーティンは日常生活に直結している。
身体を使い、時間を使い、ともすれば家族や仕事との関係性を犠牲にしながら、ランニングという趣味に精力を注ぎ込む可能性だってある。
そしてその日々の積み重ねが、いつしか結果となって現れる。
昨今では自分のランニングのデータがあらゆるデバイスによって数値化されるので、それもこうした「過剰な生活習慣」に輪をかけて陥りやすい。
しかし、それはすべてを否定するものではないし、むしろ健康へ優位に働いているのであれば、国を上げて肯定するべきものだろうとは個人的に思っているほどだ(笑)。
雨が降り続く時期はそうしたルーティンを崩しやすい。
おそらく、ランニングが続かないのは、こうしたきっかけからずるずると走らない日々が続くことによるものだろう。
だとするのなら、継続できてしまったランナーは、もはや手遅れである。
雨の日でも走らなければならない衝動にどうしたって駆られてしまう。
大便をしたあとに、そのままパンツを履いてトイレを出ていってねというくらい、走れない状況というのはランナーを困らせる。
決断の瞬間(とき)
いま、雨音を聞きながら走りに出かけようか悩んでいる。
そして、こんな文章をパソコンに打ち込んでいる。
しかし、いや待てよと。
ここでこんな文章を打ち込む暇があるなら、走ってくればいいじゃんとも思う。
よくランナー語録に収められるのが「走って後悔することはない」ということ。
はじめは走るのが億劫でも、意を決して外に出てしまえば、走り終わることには達成感に包まれ、走ったことを後悔するランナーは一人もいないということだ。
これには首がもげる程頷ける。
ということでいま、靴下を履くことを決意した。
そうだ、ランパンはあれを履いていこう…とまでは考えている。
この文章の終結はたぶん、走り終わってから書くことになるだろう。