僕はジブリアニメが好きだ。
特に「もののけ姫」の世界観に魅了され、何度も繰り返し観ている。
この作品の魅力は、単に美しい映像や印象的なキャラクターだけではない。
物語の序盤から襲い掛かる恐ろしい描写、クニとクニの争い、さらには社会から隔離された人々の姿。
そこには宮崎駿監督の鋭い問題提起が凝縮されているのだ。
もののけ姫は観るたびに新たな発見がある。
細部にわたる緻密な描写に目を奪われ、「こんなところにこのキャラが登場していたのか!」と驚くこともしばしばだ。
そんな僕にとって、岡田斗司夫氏の「誰も知らないジブリアニメの世界」という本は、ジブリ作品をさらに面白くさせてくれる調味料のような本だ。
今年もジブリ作品が続々とテレビで放送されるだろう。
そのたびに本書を紐解いてみたいと思う。
しかし、ここで読み返すのは、やはり「もののけ姫」の章だろう。
本書では「もののけ姫」を扱った章に「始まりは、1954年」と銘打っている。
これは黒澤明監督の「七人の侍」の公開年である。
1993年、宮崎駿は黒澤明と対談を行った。
岡田氏の考察によれば、この対談によって触発された宮崎駿は「もののけ姫」の制作に踏み切ったのではないかと本書では記している。
「もののけ姫」の企画書には興味深い記述がある。
農民や武士・領主などはほとんど顔を出さず、脇役(アウトサイダー)が登場する、従来の時代劇に縛られない自由な人物像を形象するというのだ。
確かに作中には、武士が農民を助けるのではなく、薄汚れた武士が農民やアシタカに矢を射る描写がある。
ゆえに単なる時代劇として観るのではなく、別の系譜の物語であることを、あらかじめ制作サイドは考えていたのだろう。
ここからは僕の「もののけ姫」を観るときの考えを述べてみよう。
僕らは、歴史という大きな箱に入れられたありきたりな物語を観るのではない。
あらゆる世界線のうえにあった、けれども古代日本にも通ずるファンタジーともいえない不思議な物語を、眼の前に映し出されているのだ。
大自然のなかにあって、人間の力は及ばない…という考えが次第に薄れ、人間が自然環境をも変えてしまう力を持つようになったことが、どれほど重大なことだったか。
そして、信仰する神がいなくなり、アニミズムも時の彼方に廃れ、科学がモノをいう時代。
そんな時代に抵抗する人間が、もののけ姫なのだろう。
じゃあ、アシタカはなんの役目があるのだろうと僕はいつも思う。
アシタカがいてもいなくても、「もののけ姫」の物語上では何ら変化もなく、実際のラストシーンでも登場人物の役割はあまり変わらない。
そこには神が消えただけであって、さらに人間の力が強くなっただけだ。
むしろアシタカがいたことで状況は悪くなってしまったように思うが、仕方がない。
キャッチコピーは「生きろ。」である。
神の力が及ばなくなることは、どこか「末法思想」にも通じるものがある。
人間が畏怖するべきものが消えちゃったよ…で終わるこの物語に僕らはどう終着点を、自分なりの解釈を見出すべきなのか。
だからといって「自然を大切にしようね」という軽い話でもない…というのも子供ながらに思った。
「もののけ姫」はそうした解釈の難しさや、多様化があるからこそ何度も咀嚼できる映画なのだと思う。
そしてそのたびに、岡田氏の書籍などを書棚から引っ張り出しては、他人の解釈すら舐め回して楽しむ。
これこそがジブリ映画の醍醐味だと僕は思うのだ。