花火を見ても心躍らなくなった
花火大会が楽しかったのはなぜか。
この問いに対する答えを、僕は長らく探し続けていた。
子供の頃、僕は花火を見るたびに胸が高鳴った。
夜空に咲く大輪の花に、心を奪われ、息を呑んだものだ。
あの上空で爆発するだけの催し物が、なぜあれほどまでに僕を興奮させたのか。
今となっては不思議でならない。
そして、それらの体験は美しい思い出となり、花火は楽しいものだという認識が僕の中に根付いていった。
しかし、その認識は20歳を過ぎた頃に大きく揺らぐことになる。
ある夏の夜、僕はひとりで花火大会に出かけた。
結果は惨憺たるものだった。
至極つまらなかったのだ。
今にして思えば、それは誰かと行く、誰かと観るという他社との共通の体験を持っていなかったからだろう。
花火の美しさは共有されてこそ、その真価を発揮するのかもしれない。
しかし、その後家族と花火大会に行っても、状況は大きく変わらなかった。
混雑でただただ疲れてしまい、花火大会に自分の性格には適合しないのだと改めて思い知らされた。
そして、かつて感じていた興奮も、もはやどこにも見当たらない。
この現象は何も花火大会に限ったことではない。
例えばディズニーランドにも同じことが言える。
本来は楽しいものであるはずのものを、素直に楽しいと受け入れることができなくなってしまったのだ。
きっとそれは、楽しいと思うこと以外の別のことが頭に浮かんでしまい、それを処理することだけで1日が終わってしまうからだろう。
眼の前で花火が上がり、ミッキーが踊っていても、それに関連する別の思考を頭の中でしてしまう。
そして、帰り道には疲労感だけが残る。
ファンタジーや夢物語を眼の前にしても、僕の脳は現実を見てしまう。
そういう思考法が、大人になるに連れて出来上がってしまったのだろう。
そして、こういう人は僕だけではないと思っている。
しかし、なかには素直にそうしたファンタジーを未だに楽しめる人がいて、僕は心底羨ましく思う。
きっと彼らには現実と仮想を切り替える頭のスイッチがあって、そのオンオフを的確に操作できているのだろう。
そして仮想スイッチを一度オンにすると、ストレスが霧消し、発散することができるようだ。
本当に羨ましい限りだ。
だが、よくよく考えてみると、僕にも仮想スイッチを小さいながらに持っている事柄もある。
それは小説だったり、映画鑑賞だったり…。
だからきっと、どこかで仮想スイッチの切り替えるべきものとそうでないものを無意識に判別しているのだろう。
子供はそういう点で、スイッチの切替が曖昧だ。
だからこそ楽しいものを素直に受け入れられるのかもしれない。
一方で大人は、そのスイッチをしっかりと操作しないと「子供っぽい」とみられてしまう。
これが僕ら大人の厄介なところだろう。
大人になった今でも、時には意識的にスイッチを切り替え、素直に楽しむ努力をすることも大切なのかもしれない。
そうすれば、もしかしたら、あの頃のように夜空に咲く大輪の花に、再び心を奪われることができるかもしれないから。
…ということで、今月の末に行われる花火大会に友人を誘ってみた。
齢35歳を超え、とっくにおじさんになった僕は、どんな感想を抱くのだろうか。
追記
2024/08/07
この記事を書いたあとにふと思ったのは、子どもが花火を楽しめるのはその体験が「はじめて」だったからではないだろうか。
夜空にけたたましい音とともに大輪の花を咲かせるこの風物詩は、本来動物などは嫌がり怯えるという。
それを人間は、楽しみ、あろうことかビール片手に歓声まで上げる。
未だ人間と動物の半分みたいな存在である子どもは、きっと内心驚きつつも、周囲の大人からそうやって「花火の楽しみ方」を学んでいく。
さらにいえば、普段とは違った大人の一面を垣間見ることも、恐らく楽しいのだろう。
次に僕が花火を眺めるときは、まるではじめてその現象を見たかのような心持ちで鑑賞するべきなのだろうか…(笑)。
いささか難しい態度で臨まなければなるまい。