実家に舞い戻り、両親の観るテレビについて思うことがある。
それは、
うるさい
これに尽きる。
特にバラエティは、過剰な笑い声や効果音にBGM。
画面を観れば、ポップな字幕に首の座らない赤ん坊のように頷きまくる芸能人のワイプ。
テレビから離れた日常を過ごしていると、テレビの世界はなんと非日常なんだと、観るたびに背中がムズムズするのだ。
そういえば以前、このブログに日本のドラマや映画に関してこのような記述を書いた。
つまりは情報の咀嚼が遅いがゆえに、漫画やアニメなど作者から提供される「映像」にいちいち戸惑う。 作者の手によって決められてしまう「変数」が多いのも嫌いなのだろう。 特に「アニメっぽい芝居」が苦手で、現実離れした会話が飛び交う日本のドラマや映画は、観るたびに鳥肌が立つ。 日本映画のクオリティの低さは、現実とは低い次元で虚構を再現しようとすること。 そうした場面に理由があるのなら許せるが、コメディタッチで笑いひとつ作り出せない嘘くさい、レベルの低い会話はマジで要らない。 そんなシーンは漫画とアニメに仕舞っておけ。
引用元: 漫画やアニメに興味がなさすぎる! – 単なる読書録
そんなことをつらつらと書いたあと、僕の言いたいことを的確に述べている記事を偶然見つけた。
松谷創一郎氏の記事だ。
2021年に放送された「日本沈没」に関して述べたうえで、日本のドラマをこう評する。
地上波は、画を観なくても登場人物がセリフで状況を説明するので、ながら観でもだいたいストーリーを追うことができる。大して視聴意欲がないひとやふだんはドラマや映画を観ないひと、あるいは政治や社会に対しての知識が乏しいひとも理解できるような大味な創りにする。それがマスに向けた地上波の作法であり、それが今回は視聴率に結びついたのだろう。
引用元: 沈没していく“地上波しぐさ”──高視聴率ドラマ『日本沈没─希望のひと─』が見せる絶望的な未来(松谷創一郎) – エキスパート – Yahoo!ニュース
そしてこれを、著者の松谷氏は「地上波しぐさ」と呼び、日本のテレビ業界の没落を案じている。
僕はこの「地上波しぐさ」というキーワードを目にしたとき、テレビを直視できない原因はまさにこれだと感じた。
つまり、分かり易すぎるのだ。
分かり易いことは決して悪いことではない。
しかし、過度に分かり易さを求めてしまうと、伝えるべき情報の幅が限られてしまう。
僕の嫌う大仰な演技はまさしくこの類をさし、大仰であればあるほど役者の伝えようとている芝居で腹一杯になる。
日常生活にこんな奴がいたら相当面倒くさい。
そもそも警察幹部役なのに、癖のある人間がどうして地位の高い立場にいるのだろう…などと余計のことを考え、極めて「日常からの遠さ」をおぼえる。
試しにこの人物が出世した背景を勘ぐってみても、答えにつながる明確で意味のある理由はドラマにはない。
分かり易くする過程で発生する「無理」が視聴者に透けて見えるところがあって、目も向けられないのだ。
警察幹部なら、なるべくしてなる人材が当然、職務に当たるはずであるし、おちゃらけた人物が出てくることでもう観る気が失せる。
現実であればそうした人物が警察官部に推挙されることは有り得ないのであって、前提としてすでに物語が破綻している。
そうした破綻している物語に、なんの疑問もないのか、破綻した役を演じる俳優たち。
リアルさがかけるとまさしく、分かりやすさで作品が腐ったなと思う。
バラエティも同じ。
多くの芸能人が集まるトーク番組では、ひとりが長くダラダラと喋るシーンはあまりない。
ゆえに薄っぺらい。
重要な部分の「ミソ」だけをかいつまんで、起承転結をスマートに話すことだけが求められているのだろう。
長くて情報量が多いから「良い」ということでもないけれど、バラエティを観ていて勉強になったと思うことはほとんどない。
Youtubeを観ていたほうが、よっぽどタイパも良いし頭に入ってくる。
そんなテレビを朝から晩まで好き好んで見続けるテレビっ子が日本の何もかもを右肩下がりにしたのも、まぁそうだよな…とは頷ける。
テレビはうるさいだけ。
今後のテレビは、不必要なものを削ぎ落とすことが、かえって意味を持つような気もする。
ドラマも映画も、徐々に難しく、テーマを深堀りしていくものが良いだろう。
ゆえに笑えないコメディタッチは一切不要だ。
声色をコメディタッチにしたナレーションも必要ない。
それを入れるのなら、もっと情報を注ぎ込めばいいのに。