実はこのページ、最近話題のチャットGPTを使って書いてみた。
記事にしたいキーワードを箇条書きに羅列していき、文体をいくつかの候補に出し、最後に微調整を施す。
ところが、どうも納得のいく文章にならない…。
僕の文章の下手さ加減や、独特のリズム感がうまく表されていないようでぎこちない。
目にも留まらぬ速さで文章を作成することは可能になったものの、「何か」が抜け落ちているようにも思う。
そんなことを考えていたら、先日、お世話になっているデザイン事務所の社長と話をする機会があった。
彼女の事務所では文章の編集も請け負い、生成AIをどんどん導入していきたいと意気込んでいるのだ。
業務が早くなり、出来上がる制作物も大量になれば、それだけ生産性も向上するのは理解できるが、待てよ。
よくよく考えると制作物を認識するのは本来、人間であるはず。
大量のデータをAIが読み込み、ビッグデータとして処理を施し、さらに新たな「材料」として学習していく…というのが近年AIが飛躍的な進化を遂げた内訳ではあるのだけれど、そうして出力された情報を真に読み込むべきターゲットは、他でもない、われわれ人間だ。
いくらAIが大量の情報を出力し、それらを読み込もうとも、人間自体のインプットは(個人差があれど)一定程度に限られるわけで、むしろ情報の「質」や「価値観」が薄くなっていくように思う。
つまり、こんな流れ。
- AIが大量に情報を出力する
- 情報量が多すぎて、人間が取捨選択できない、理解できない。
- AIが必要な情報を選択し、人間に出力する
- そうした情報を、再度人間がAIを使用し「肉付け」する
- AIが大量に情報を出力する
といったように、情報空間には無間地獄の大量のデータに溢れかえる。
やがて人間が真に作り出した情報の絶対数が比較的に少なくなって、実はAIが作り出した情報の方が多くなる…ということに成りかねないのではないかと僕は思う。
そんな話をつらつらとしていたら、「じゃあ、AIが作った村上春樹の新作を村上春樹の新作として読めるか」という話題に。
村上春樹ではないにしても、多くの著書を世に刊行する著者の文体をすべてAIがインプットし、解析し、なにがしかのプロンプトを設定して出力すれば、プロの小説家もビックリの面白い物語がいとも簡単につくれてしまう…という世の中になったら?
そうなったとき、果たして僕らはAI村上春樹の本にどれほどの対価を払い、どんな価値を見出すのだろうか…。
以前、紅白歌合戦で美空ひばりの新曲をAIが歌っていた。
僕はとても良い曲だと思ったが、それでもAIだと思うとありがたみは、正直ない。
もしも美空ひばりが存命であるのなら、さらに憤慨したことだろう。
えっ、美空ひばりいらないじゃん。ちゃんと自分で作れよ…と(笑)。
ということは、偉大な著述家のAIは、その死後に存在意義を見出されるのであって、生存しているうちはやはり、自分の力で文章などの作品を制作しなければならないのだと思う。
とくに名も知られていない修業期間中の身であるのならば、なおさら。
それに生成AIが一般化していない現在、それらを使って作ったという事実にどこか罪悪感もあるのは、他の作り手も同じ思いだろう。
事務所の社長はしきりに「これからは生成AIが当たり前になる、人間の考え方を変えないと生き残れない」とは言うけれど、僕はどうも時代の移り変わりに臨機応変に対応することが出来なさそうだ。