『地球星人』の評価は「気持ち悪い!?」
佐藤優さんの評価
ずっと気になっていた本があります。
以前、佐藤優さんの著書「危ない読書」で、こんな紹介がありました。
文学とは毒を薬に変えるものだと言う人がいる。しかし、この作品を読めば必ずしもそうではないことに気づくはずだ。
引用元:危ない読書 教養の幅を広げる「悪書」のすすめ (SB新書)p.233
この作品はどうやってもまともな話に回収できない。毒の味に眉をひそめながら読み続け、読後もその毒が消えない。なんなら軽い吐き気を催す人もいるだろう。毒は毒のままの文学作品。 それがこの作品の強さだと思う。
ネット上のレビューを見ると概ね高評価だが、「気持ち悪くて読めなかった」「意味がわからなかった」といった理由で低評価をつけるレビュアーが見受けられる。気持ちはよくわかる。しかし、村田氏はそもそも読者を気持ち良くさせるためにこの作品を書いたわけではない。
タブーとは世の中の拒絶反応が起きるところにのみある。よって「気持ち良かったか悪 かったか」は重要なことではなく、「読者はどこが気持ち悪いと感じたのか」「なぜ気持ち悪いと感じたのか」がポイントなのだ。
そんな評価から、怖いもの見たさで読んでみたくなったのです。
地球星人を読んで思ったこと
読んでみたのは、村田沙耶香著「地球星人」。
読後は確かに「気持悪い」とは感じましたが、さほど抵抗感なく、スラスラと読めてしまう。
むしろクライマックスの、姉と母とに見つかった後に起こる顛末を想像するのも、この作品を「供養」するひとつの方法だと思う。
佐藤さんも述べているように「どうやってもまともな話に回収できない」のだから。
ベストセラーである「コンビニ人間」と通底しているのは「世間が思う価値観」と「世間とは違った価値観」を持つ人の乖離が描かれていること。
その乖離を甚だしく強調したのが「地球星人」であると思います。
作中でも、
夫の両親、兄夫婦、友人などがたまに、「工場」の様子を偵察しに来た。私と夫の子宮と精巣は「工場」に静かに見張られていて、新しい生命を製造しない人間は、しているという努力をしてみせないとやんわりと圧力をかけられる。 新しい人物を「製造」していない夫婦は、働くことで「工場」に貢献していることをアピールしなくてはいけない。
引用元:地球星人(新潮文庫) p.139
とあり、つがいになることや、子どもをもうけること、そして、子どもを真っ当に育てるための労働をすることが周囲の人間から求められている…ように感じてしまう主人公。
そんな圧力に従いつつ、上手に世間を渡り歩ける人間を本作では「地球星人」と呼び、うまく適応できない人間を主人公である彼ら「ポハピピンポボピア星人」と自称することになります。
読後に「農的コミュニティ」を想う
「秋級」という田舎町の設定と家族観
作品のなかでは架空の田舎町「秋級(あきしな)」が舞台となりますが、そうした親戚とのつながりを重視する地域を村田さんが選んだことにも意味があると僕は思います。
なぜなら、何かあればすぐに集まる「親戚」というコミュニティは核家族化が極まって、離散することのほうが必然的だから。
「親戚」として集まれる親族と集まれない親族の価値観の差が、今後はますます拡大すると僕は考えています。
たとえば昨今、Twitterを賑わせているのは、価値観の合わない嫁が紡ぐ義理家族への愚痴。
リプライを読んでみれば賛同するコメントが多く、大抵は核家族で育った妻と、親戚付き合いの多かった夫との相違が大きくあるように思います。
かくいう僕も親戚づきあいは皆無の核家族で育ち、いっぽうでは群馬県の山村に暮らしています。
移住してから驚くのは、周囲の人たちの「親戚ネットワーク」の強固なこと。
そこには、単独の家族形態では生きていくことが難しい「農的な共同体」が未だに根付いているのだと僕は考えています。
農業の繁忙期には人手を要するものであり、そこには人的な相互扶助が欠かせなかった。
その根本には「家父長制」があり、主人に逆らうことはご法度の家族形態がある。
ゆえに本家の主人や、力のあるイエの主人は、それよりも下位の人間をたとえ血縁関係がなくとも「家族」として扱う。
家族であるのなら、奴隷のように扱ったとしても大した問題ではなく、ときに非常識な厚遇を求めてくることもある。
それが都市部の核家族からは理解されないのです。
ところが都心などに移り住み、核家族で暮らすとなれば、そうした人的相互扶助がないからこそ、「農的」ではない「社会的」な法則に従わなければならない。
さらには確固たる「経済的な独立」が求められる。
言い換えれば誰からも助けを求めることができない状況に追い込まれているのです。
かたや時代の変遷とともに、農的な共同体は面倒なものであり、さらには地方での「経済的な独立」は商工業等の衰退から臨めなくなった。
そして地方には空き家が増え、災害が起こったとしても誰も救助に来ない現実が作品としての背景にも描かれています。
これはあながちフィクションとして終わることのない景色であるように感じるのです。
「僕たちが住んでいた街が人間工場だとしたら、ここは工場跡地ですね。もう新しいものが作られない工場。 誰かから作れと言われることもない。僕はここのほうがずっと落ち着く。使い終わった部品として、ここでこれからずっと生活したい」
引用元:地球星人(新潮文庫)p.197
「そうでしょうか。僕は、たまに言われますけどね。若いんだから嫁をもらえ、子供を作れって」
「それは工場の亡霊ですね。跡地には亡霊がいるものです」
夫が深刻な顔で言うので、由宇は楽しそうに笑った。
「そう、この村には亡霊がたくさんいるのかもしれませんね」
農的な共同体を維持するために変わることのできなかった農村は廃れ、農村に残る人間は今でも強い「地球星人」の信仰を胸に抱いている。
村田さんは地方部に今も根付く、ジメジメとした湿気くさい家族観をきっと理解しているのでしょう。
移住したら仕事の質は落ちる職業は確実に存在する
コロナ禍の影響から都心を離れ、地方で暮らす人が増えているという報道を度々目にしますが、地方に移住することは、先述の面からも厳しいと思うのです。
なぜなら、都市部よりも「地球星人」が多いから。
しかも「地球星人」が持っている信仰が生み出された「聖地」でもあるのだから、「ポハピピンポボピア星人」が秋級の人間と一緒に暮らすことにはかなりの高いハードルがあるではないかと思います。
たとえば、最新の情報を取り入れながら、アイディアを駆使する職業が、中山間地のような農村部で存続するのは不可能に近いでしょう。
なぜならアイディアを生むこと自体、世間とは違う考え方を想像することでもあり、もしも農村のなかで長年培われた価値観と相反するのであれば、大きな軋轢を生むことは間違いありません。
そうしたアイディアは、アイディアを生み出す多くの人たちとのコミュニケーションのなかで生み出されることも多く、古い習慣を守り、新しい価値観を棄てるコミュニティの人間に、生み出せるものはさほどありません。
アイディアを持っている人間は農村を離れ、みな都心へ出て行ってしまったのですから。
もっとも、朝から晩まで外で農仕事をしている人間と、パソコンを前にして日中でも涼しく仕事をしている人間との間に、「仕事観」の差は相当なものがあると思う。
そこに収入の格差があることを、農村部に知れ渡ってしまえば…。
著書の村田さんはそのことを意識しているのか、豪雪地帯である秋級は冬になると住民が里を下りる…という都合の良いストーリーに組み立てられています。
けれどリアルな地方は、思うよりもずっと隣に「地球星人」がいて、周囲の状況を監視しあっているのです…(笑)。
読めば見えたのは誰もいなくて静かな田舎
この作品にはそうした農村のコミュニティにも思いを馳せることができる。
読後、僕が感じたのはこうした世間の同調圧力であり、たとえ秋級で生活できたとしても、やがては秋級にもとからある古い習慣に飲み込まれていたような気もする。
3人だけでは決して生きていけないのだから。
「秋級」という町すらフィクションであるものの、孤立した人間が追い込まれ辿り着いたのは、都市からをも見離されようとしている自治体。
そうした限界集落的な農村は現実にもゴマンとあり、そんな凄惨さが恐ろしくもリアルに描かれています。
特にクライマックスの静けさは、あながちあり得ない話ではないだろう、と。
「人里」が「人里」でなくなったとき、何が起こるのかを想像できる作品でした。