地元のパン屋がウェブサイトを持たない

情報の探し方が変わった?

SNSの情報のほうが確度が高い

最近、近所に新しいパン屋ができた。
早速買いに行こうと営業時間をネットで調べたのだが、どうしても検索に引っかからない。
試しにSNSでも検索をかけると、やっとInstagramにヒットした。

ここ最近、情報を告知する媒体を受け手側が横断しなければならないことが増えたように感じる。
例えば、某ランニング大会のホームページも、正直見づらい。
欲しい情報がどこにあるのか分からず、インスタグラムの方がきちんとコースや詳細情報が掲載されていたりと、ホームページよりもSNSをあたった方が確度の高い情報を得られることが多くなってきている。

さらに驚いたのは、ホームページが分かりにくいにも関わらず、それなりに告知は成功しているようで、あっという間に出走エントリーは埋まってしまったことだ。
「ggrks(ググレカス)」の時代のように検索をすればある程度の情報が得られる時代ではなくなってきているのではないかと感じる。

ウェブ上に情報を載せることの意義

僕が今、このようにブログにモノを書いているのは、自分の考えたことをネット上に蓄積しているという意味もある。
その蓄積は誰にも読まれなくとも将来、自分で検索して「あの頃の僕はこんな考えを持っていたのか!」と追想に浸るという自己満足を昇華するためだ。
いわば公開する日記である。
公開する情報を選ぶという少しばかりの制約はあるが、いつしかクローラーが見つけ出してくれ、読んでくれる人がいればなお嬉しい。
それがブログを続けるモチベーションでもある。

そう、情報を溜めていけばいくほど、スカスカだった骨格に肉がついてサイト自体の価値が上がる。
そして編集者が情報を再構築し、さらに深い考察を読者に提供する。
読者がサイト内の情報を拾う、あるいは著者が内容をわかりやすく再編集することで、双方向から情報の場が作られていくというイメージが僕にはあった。
つまり、ブログを運営する意義というのは「情報の蓄積」にあり、「情報の深化」でもあると僕は考えていた。
そしてそれがいつの間にか、運営者にとっての資産となる…。

しかし、今ではそうでないらしい。
SNSは大抵、最新情報が上位に表示され、古い情報は捨てられていく。
数年前に書いた投稿はあまり意味を持たなくなった。
そして、読まれる文章の量は格段に減り、いかに視覚的に感情的に訴えることができるかに重きを置くようになっている。
それは社会の動きが早いからという事情もあるだろうが、情報を磨き上げるという作業を誰が負担するのかというフェーズも変化したように思う。

つまり、情報を探し出し、不要な情報を削ぎ落とす(精査する)負担が、実は読み手側に対して徐々に増えているのではなかろうか。

面倒を省いていたらもっと面倒くさいことに

「検索することが面倒くさい」

そんな話をとある社長としていると、「そりゃそうだよ」との返答。
SNSのミソは向こうから情報がやってくる。
つまり、スマホアプリを開ければ受動的に情報が提示され、ユーザーは瞬時に咀嚼していく。
そのスマホを手に取る時間の中で、受け手側が能動的に検索をする負担はかなり大きく、「読む」という行為はその最たるものである、と。

さらに、インスタグラムの良いところは、提示される情報がすでにパーソナライズ化され、検索をせずとも「あちら側」から「こんなのどうだい?」と興味をそそるようにできている。
古くからネットに親しんだインターネットおじさんが、いくらネット上に情報を蓄積しようが、受け手の感受性にそぐわない、かつ最新の情報でなければあって無いようなものだと看破されてしまった。

AIが検索を代行してくれる時代に?SNSはユーザーを制限する

そんな時代であるからこそ、AIが情報を検索し、個人に適応する情報を収集・選択し提示することが求められているし、確実にそんな時代は到来する。
提示された情報は正しく、検索する手間も作業も減り、僕らは仕事も日常の情報チェックも素早く済ますことができる。
だから情報を収集するという作業は、今以上にラクになる!

とは、そうは問屋が卸さないかもしれない。

パン屋の話に戻れば、わざわざホームページを作らずSNSのみをプラットフォームとしている理由は、不特定多数というインターネットの閲覧者に、一定の制限を掛けようとしているのではないか。
つまり、SNSを利用できない年齢層や、遠方に住まう客への周知は不要で、コアな客層との接点をつなぐ役割をこのSNSは果たしているのだろう。
そこにあらゆる情報を拾ってしまうAIは不要であって、必要な人だけに情報を届けるための手段は残る可能性はある。

たとえばChatGPTに居住地域や読み手の年齢層・性別・趣味嗜好を発信側が調整できるか?といえば、現状そうした制御は難しいだろう。
悪者として槍玉にあげられる「フィルターバブル」も、利便性を考えればそうならざるを得ないもの。
自分に関係のない情報が次から次へと表示されるSNSは、確かに使おうとは思わない。

ホームページは要らない?

情報の取捨選択はAIが行うことになるにせよ、ホームページが不要だということにもならない気はする。
ホームページの立ち位置は「名刺」であり「看板」である。
誰もがその存在を知る拠点となるべく情報源はネットにあったほうが、利用者にとっては優しいだろう。
しかし、コアな情報はホームページに掲載されることが減り、SNSを介してターゲットを絞って発信される。
特に小さな集団や企業体において、その傾向は強くなるはずだ。

ホームページ(ウェブサイト)はハブ化して、そこからユーザーが自分の欲する情報を探しにいく機会が多くなるかもしれない。
僕がパン屋の情報をInstagramで一生懸命に探したように。

僕らはどこに情報を発信すればよいのか

そこで疑問が湧いて出てくる。
今後、インターネットを「検索する」という行動が「生成AIに訊く」という行動に変化した際に、僕らはいったいどこに情報を上げることが望まれるのだろう。
インターネット上に発信しなければ、その情報を欲している人に渡らないだろうし、その情報を探索に来る人工知能になんとアプローチすればよいのか。
恐らくは今までどおり、ブログやウェブサイトといったプラットフォームにSEO対策を付加しながら、個別に発信していくことが最適解になるのだろうが、上げ方次第によっては公式よりも他のユーザーの持つ情報のほうが信頼性が高まる…ということもあるだろう。
それは現状でも同じようなことが起こっているわけだし、特に危惧することでもないとは思うが、読み取ってほしい情報をコントロールするには不安が伴う。

ユーザーはスキマ時間を使って情報を取りに来る

Instagramに情報を載せるパン屋は、ユーザーをある種制限していると僕は書いた。
ユーザー側(情報を得ようとしている側)も、必要な情報だけを取り出せれば良いうえに、情報を探す時間の「タイパ」を重要視するだろう。
つまりは僕の書いているこのブログのように、何を書きたいのか論点が不明確な情報は、極めて読んでもらえないものとなり得る(笑)。
さして重要な内容を記しているわけでもないが、これが「ブログを書いていることの意味が不明」ように感じる点である。

かといって、いまのところSNSの情報をAIが重点的にクロールしているような感覚はない。
例えばSNSでしか情報を掲載していない先のパン屋の存在をSNSに訪ねてみても、現在はウェブ上の公開情報のみで返答を返してくるだけだ。
恐らくプライバシーの問題もあるのだろうが、プラットフォーム側もAIを開発する昨今。
SNS上のビッグデータは貴重で有益なもの。
いずれ堰を切ったように、SNS上の情報も生成AIに利用されるに違いない。
それまでは気になる情報があるのなら、ユーザーがユーザー自身で、タイムラインからすぐに消えてなくなってしまう情報を探しに行くしか手はないだろう。

いずれ動画も咀嚼してくれる?

そしてAIはYouTubeなどにあがる動画の内容ですら咀嚼してくれる可能性もある。
というより、そんな機能が欲しいと僕は前から思っている。
今後、動画にせよ、文章にせよ、僕らは何かを発信するときに大切になってくるのは、どこのプラットフォームに発信するのか…はあまり重要ではなくなるのかもしれない。
文章は音声や動画になり、音声は文章や動画になる。
発信者が得意な方法でネット上に落とし、次に誰に向けて発信するのかが重要になり…と、情報は人間とAIの相互のやり取りでこねくり回され、ミソだけが取り出され、やがて本来、意図したものではない情報に変化するようにも思う。
情報の受け手側が、それをどう利用し、どう理解するのかにもよるのだろうが。

少し恐ろしい。

この記事を書いた人

名無しのユータ

「読書が趣味」という訳ではないし、遅読で読解力も低い。けれど、読書を続けることでモノを考える力がやっと人並みに得られると感じ、なるべく毎日、本を紐解いている。
趣味はランニング、植物栽培など。