噂話がホモ・サピエンスを社会的な動物にした
噂話は結束力を高める
噂話というテーマを耳にするにつけ、僕は黙ってはいられない。
僕は、神奈川県から群馬県のとある過疎地に30代から働きに出た中途半端な田舎育ちで、噂話が日常の一部となっている環境で過ごしてきた経緯がある。
群馬の過疎地では、口を開けば誰かの噂話をするのが当たり前のような雰囲気があった。
ユヴァル・ノア・ハラリの説は非常に示唆に富んでいると思う。
噂話がホモ・サピエンスを社会的な動物にしたという考えは、突拍子のない理論ではあるけれど、人間の本質を突いている。
私たちの独特の言語は、周りの世界についての情報を共有する手段として発達したという点では、この説も同じだ。とはいえ、伝えるべき情報のうちで最も重要なのは、ライオンやバイソンについてではなく人間についてのものであり、私たちの言語は、噂話のために発達したのだそうだ。 この説によれば、ホモ・サピエンスは本来、社会的な動物であるという。私たちにとって社会的な協力は、 生存と繁殖のカギを握っている。個々の人間がライオンやバイソンの居場所を知っているだけでは十分ではない。自分の集団の中で、誰が誰を憎んでいるか、誰が誰と寝ているか、誰が正直か、誰がずるをするかを知ることのほうが、はるかに重要なのだ。
数十人の人の刻々と変化する関係を追跡するために手に入れて保存しなければならない情報の量は信じ難いほど多い(五〇人から成る集団では、一対一の組み合わせは一二二五通りあり、より複雑な社会的組 み合わせは無数にある)。あらゆる類人猿がそうした社会的情報に強烈な興味を示すが、彼らは効果的に噂話を交わすのが難しい。ネアンデルタール人と太古のホモ・サピエンスもおそらく、なかなか陰口が利けなかった。陰口を利くというのは、ひどく忌み嫌われる行為だが、大人数で協力するにはじつは不可欠 なのだ。新世代のサピエンスは、およそ七万年前に獲得した新しい言語技能のおかげで、何時間も続けて噂話ができるようになった。誰が信頼できるかについての確かな情報があれば、小さな集団は大きな集団へと拡張でき、サピエンスは、より緊密でより精緻な種類の協力関係を築き上げられた。
「噂話」説は冗談のように聞こえるかもしれないが、おびただしい研究に裏打ちされている。今日でさえ、 人類のコミュニケーションの大多数は、電子メール、電話、新聞記事のいずれの形にせよ、噂話だ。噂話はごく自然にできるので、私たちの言語は、まさにその目的で進化したかのように見える。
引用元:サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福 (河出文庫) [ ユヴァル・ノア・ハラリ ]
噂話を通じて情報を共有し、集団の結束を強めるという機能は、人類の進化の過程で重要な役割を果たした…。
過疎地のような農村部に住まうと、そうした言説に首がもげる程、頷けるだろう。
過疎地に住まう彼らは噂話をすることで、他人との距離を保ち、つながりを維持してる。
これは原始的な「人間の本能」みたいなものだと捉えるようになってから、彼らの噂話が逆に興味深くなったりしたのだった(笑)。
基準は「150人」
ハラリが指摘する150人という限界人数も興味深い。
これは、いわゆる「ダンバー数」と呼ばれるもので、人間が安定した社会関係を維持できる人数の上限とされている。
噂話はたいてい、悪行を話題とする。噂好きな人というのは、元祖第四階級、すなわち、 ずるをする人やたかり屋について社会に知らせ、それによって社会をそうした輩から守るジャーナリストなのだ。
認知革命の結果、ホモ・サピエンスは噂話の助けを得て、より大きくて安定した集団を形成した。だが、噂話にも自ずと限界がある。社会学の研究からは、噂話によってまとまっている集団の「自然な」大きさ の上限がおよそ一五〇人であることがわかっている。ほとんどの人は、一五〇人を超える人を親密に知ることも、それらの人について効果的に噂話をすることもできないのだ。
今日でさえ、人間の組織の規模には、一五〇人というこの魔法の数字がおおよその限度として当てはまる。この限界値以下であれば、コミュニティや企業、社会的ネットワーク、軍の部隊は、互いに親密に知り合い、噂話をするという関係に主に基づいて、組織を維持できる。秩序を保つために、正式な位や肩書、 法律書は必要ない。三〇人の兵から成る小隊、あるいは一〇〇人の兵から成る中隊でさえ、親密な関係を基に、うまく機能でき、正式な規律は最低限で事足りる。人望のある軍曹は、「中隊の王」となり、将校たちにさえ指図できる。小さな家族経営事業は、役員会やCEO(最高経営責任者)や経理部なしでも生き延びて、繁盛できる。だが、いったん一五〇人という限界値を超えると、もう物事はそのようには進まなくなる。小隊を指揮 ずるのと同じ方法で、一万を超える兵から成る師団を指揮することはできない。繁盛している家族経営の店も、規模が大きくなり、多くの人を雇い入れると、たいてい危機を迎える。根本から再編できなければ、倒産の憂き目に遭う。
引用元:サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福 (河出文庫) [ ユヴァル・ノア・ハラリ ]
僕は、この数を基準にコミュニケーションの図り方も変わるように思う。
人口減少によって日常的に関わりある人数が150人以下になってしまう集落や自治体は今後、ますます増えると僕は考えている。
自治体の人口が1万人を下回り、外を出歩いても、150人以上と出会わないし、だいたい顔見知り…という状況になる。
その一方で、人口が5万人、10万人と増えていくと、人間関係の範囲が広すぎて噂話の効力が失われていく。
都市部では隣近所に誰が住んでいるのかもよく分からないのは、こうしたことも絡んでいるのではなかろうか。
出会う人数が150人を超え、匿名性が高まることで、個人の自由度が増し、他人の目も気にせず、自分らしく生きられるようになる。
反面、関係する人口が減れば、噂話をしていれば簡単に繋がることができたコミュニティの結束力は弱まり、孤立する人が増える可能性もある。
過疎地と都市部とのコミュニケーション手法の違い
ゆえに「都市部」と「農村部」とのあいだで、コミュニケーションの手法が二極化され得るのではないだろうか。
というより、すでにそうした分断はなされていて、都市部の出身者はさほど露骨な噂話をしなくても他人との距離感を保てるのではないだろうか…と感じることがある。
すなわち、会話の中心が近い関係性をもった共通の他人の噂話ではなく、時事ネタや興味関心などの当たり障りのない、けれども内容が濃くて面白いハナシが自然とできるように幼少期から培われていくのでは…と。
群馬の過疎地に住んでいると、話の内容がなかったり、話の展開に深みがない人が多かった。
きっとそれは、自分と「共通の話題がない」他人と、いかにコミュニケーションを図るか…という回数が、都市部の人間よりも断然少ない所以だろう。
地方の人間が都市部に来て、話の合わない異なる年代の人間と話すときに一番困るのは、おそらくここらへんではないかと思う…。
都市部では絶えず、自分と他人の共通点を引き出しの中からカードを探すことになる。
そして今、人口減少社会を迎えつつある日本。
徐々に社会が「縮小」していく中で、再び噂話が通じるような状況になる可能性もある。
これをどう評価すべきか、僕には簡単には判断できない。
社会が狭くなることの是非は、おそらく一概に言えるものではないだろう。
それぞれに長所と短所がある。
例えば、狭い社会では互いの顔が見える関係性ができ、助け合いの精神が育まれやすい。
噂話を多く「稼ぐ」個体が過疎地において生存能力は高いだろう。
一方で、全体的に個人の自由や多様性が制限される機会は格段に高まる。
現代では「閉鎖的」なコミュニティのほうが危険だ
結局のところ、噂話にせよ、社会の規模にせよ、重要なのは僕らがそれとどう向き合うかだと思う。
批判的思考を忘れず、情報を鵜呑みにしないこと。
つまりは、しっかりと考えて、今以上に自分の意見を持つことが大切になるはずだ。
閉鎖的なコミュニティの運営が許されていた時代には済まされていたことが、デジタル網が張り巡らされた現代において、「おらが村」思考では、批判の集中砲火を浴びるだろう。
コロナ禍でのワクチン騒動で僕も感じたが、危機的な状況に陥り、閉鎖的になればなるほど、内側からの疑問の噴出が激しくなる。
人口減少社会を迎え、僕らの暮らす環境は確実に変化していく。
その中で、人と人とのつながり方も変わっていくだろう。
しかし、その変化を恐れるのではなく、新しい形の「共生」を模索していく必要があるのではないだろうか。