あの震災をどんな言葉で形容しても、表現しきれない。
たえず「何で」「どうして」が渦巻いていたあの日を僕たちは今日、思い返していました。
読売新聞朝刊一面コラム – 竹内政明の「編集手帳」傑作選 (中公新書ラクレ)
3月11日、そのとき僕は
日本列島を巨大地震が襲ったその日、僕は小田原で仕事をしていました。
社内の備品が倒れ出し、慌てて社屋を飛び出したときには車が前後に動いている…。
その日はもう仕事どころではなくなりました。
他の従業員が帰宅するなか、僕は道路からマンホールが飛び出した影響で帰ってこれない同僚を待つことに。
そのとき、テレビの画面に映し出された想像を絶する映像にただただ絶句。
携帯電話もメールも繋がりません。
数時間後、無事に同僚が職場に戻ったことに安堵し、帰ろうとすると主要道路はマヒしていて動かない。
周囲には、けたたましいサイレンとともに繰り返される「大津波警報」。
24時間営業して当たり前だと思っていたコンビニや牛丼店の明かりは消えている。
やっとの思いで自宅に戻ったとき、すでに3月11日を過ぎていたように記憶しています。
それからというもの、この震災を僕らはどう理解し、どう咀嚼していくべきか。
そして、どう記憶していくのかに戸惑い、陰鬱な日々を過ごしてきました。
寒き世をあたたかき世に。
震災の起こった3月が過ぎようとしていたその日の朝、新聞のコラムに僕は涙しました。
生まれてまもない君に、いつか読んでほしい句がある。
引用元:読売新聞朝刊一面コラム – 竹内政明の「編集手帳」傑作選 (中公新書ラクレ)
〈寒き世に泪そなへて生れ来し〉(正木浩一)
君も「寒き世」の凍える夜に生まれた。列島におびただしい泪が流れた日である。
震災の夜、宮城県石巻市の避難所でお母さんが産気づいた。被災者の女性たちが手を貸した。停電の暗闇で懐中電灯の明かりを頼りに、へその緒を裁縫用の糸でしばり、君を発泡スチロールの箱に入れて暖めたという。
男の子という以外、君のことは何も知らない。それでも、ふと思うときがある。
僕たちは誕生日をを同じくするきょうだいかも知れないと。
日本人の一人ひとりがあの地震を境に、いままでよりも他人の痛みに少し敏感で、 少し涙もろくなった新しい人生を歩み出そうとしている。原発では深刻な危機がつづき、復興の光明はまだ見えないけれど、「寒き世」は「あたたかき世」になる。する。
どちらが早く足を踏ん張って立ち上がるか、競争だろう。
原爆忌や終戦記念日のある8月と同じように、日本人にとって特別な月となった3 月が、きょうで終わる。名前も知らぬ君よ。たくましく、美しく、一緒に育とう。
読んでいた新聞をちぎって財布にしまい、ことあるごとにこのコラムを読み返したものです。
被災された方々の報道を見聞きするたびに、僕らが「あたたかき世」にしないでどうするんだと自分に言い聞かせるために…。
このコラムを読むたびに当時の記憶、それから苦しいと思うことを表に出してはいけないような閉塞感。
見えない放射能への底知れぬ不安など、さまざまな感情が思い起こされます。
そういえばあの頃には、「節電」が叫ばれていました。
我が実家のある街のあらゆる街灯が消え、暗いことがこんなにも不便なのかと思い知らされたものです。
それから2~3年後、すべての街灯に明かりがともります。
しかも、街灯のLED化が一気に推し進められ、震災前よりも少しばかり明るくなったように思えたのです。
現在では続くコロナ禍で、「寒き世」が「あたたかき世」になったとは思えません。
昨年、陸前高田を訪れましたが「復興」したと言い切れるような景色ではないように感じました。
どうか一刻も早く「あたたかき世」になってほしいと願うばかりです。