本は自分で選べ!森博嗣さんの考える「読書の価値」とは。

読書は人に出会うのと同意だ

森博嗣さんの「読書」

森博嗣さんはあまり読書をしなかった…というと語弊があるけれど、博覧強記のような大量に本を読むほどではなかったそうです。

主に少年時代から外国のミステリーを読んでいて、漫画は萩尾望都を愛読。
けれど、凡人の読み方のそれとは違い、1度読んだら忘れない。
だから「蔵書」がなければ、読む本は電子書籍が増えているという。

さらには、物事を考えるときに浮かび上がるのは「言語」ではなく、「映像」なのだそう。
僕の場合、映像で想像することもあれば、文章のような事象は単純に言葉を組み合わせて考えるのですが、基本は言語で物事を考えます。
つまるとこと、凡人の僕にとって森さんの読書術が参考になるかといえば、参考になりません。

本を選ぶところから「読書」ははじまる

ただ、「読む本は自分で選ぶ」という第2章は、参考になります。
参考になる、というよりも、本来はそうあるべきなのだけれど、実は極めて難しいと感じる部分。

現代人には時間がありません。
貴重な時間に無駄な本を読んで後悔することは、なるべく避けたいものです。
結果的にその手の有力者が記した本や、紹介する本に手を染めてしまう(笑)。
それが悪いことではないのだけれど、万人が読むだろう本を読んで、結果的に万人のなかの凡人になってしまうというのは、クリエイティブな思考が求められる現代の働き方にとっては、幾ばくかはマイナスなのかもしれません。

そこで森さんは、本を読むことは即ち、人と出会うことと同意だと指摘。

つまり、自分の時間と空間内では経験できないことであっても、他者と出会うことに よって、擬似的に体験できる。人を通して知ることができるのだ。これが、群れを成している最大のメリットだといえる。沢山で集まっているほど、この情報収集能力が高まる。誰か一人が気づけば、みんながそれを知ることができるからだ。
この言葉によるコミュニケーションが、文字に代わったものが本なのである。
結局、本というのは、人とほぼ同じだといえる。本に出会うことは、人に出会うこととかぎりなく近い。それを読むことで、その人と知合いになれる。先生、友達、あるいは恋人と、本によってどんな「人」なのかという違いはあるけれど、ほぼ「個人」である。そして、多くの場合、それはその本の著者であり、またあるときは本の語り手(主人公)といえる。

読書の価値 (NHK出版新書) p.74

さらには、

人の教養や品格というものは、ある程度、その人の周辺の人々との関係によって形成されるだろう。どんな人間とつき合いがあるのか、誰の影響を受けたのか、といったことが基本となり、積み重なって、その人物が作られていく。これと同様に、読んだ本によって、やはり教養や品格が作られるだろう。

読書の価値 (NHK出版新書) p.90

とも。
しかし読書は極めて孤独な作業。
というより、輪読や勉強会、読み聞かせなどで本を読むことはあっても、それらの情報を認識し、咀嚼するのは最後には自分自身。
自らの読書体験をどう処理するのかが重要。

しかし、何度も書いているように、本を読んだときの体験は、人それぞれで違っている。自分と同じものを他者も見ているわけではない。そして、その自分だけの世界を思い描くことこそが、読書をする価値なのである。それは、世界であなただけが見ることができた世界なのだ。したがって、本を選ぶのは、やはりあなたしかいない。自分で自分のために本を手に取る、自分で選んで自分にプレゼントする。読み終わったときに、それが面白かったら自分に感謝する。 もし面白くなかったら、次から気をつけてね、と自分に注意をする。 そういうことである。これが、読書体験そのものなのだ。本を読んでいる時間だけではなく、本を選ぶところから、既に読書は始まっている。 本を一度も開かなくても、本を買っただけで、その本を選んだだけで、あなたは読書体験をしているのである。

読書の価値 (NHK出版新書) p.97

読書体験は本を選ぶことからはじまっている…。

選ぶことが即、思考であるのなら、本を選んだ瞬間にその人の思考の形態、つまりは「センス」が、あらかた決まってしまうのではないでしょうか。
人が読んでいる本を読まないように心がけるというのは、「投資」にもなるし、人とは違う着眼点を得るためにも大切なものとなりうる…と、森さんは説いています。
電車の吊り広告、新聞の書評欄、SNSの読書アカウント。
日常生活を営む中で、ありとあらゆる「この本を読め圧」が押し迫ってくるのだけれど、それらを避けながらも情報を吟味することすらすでに、読書であるのかもしれません。
でも、冒頭に書いたように、他人との意見の調和を目指す日本人の思考上、それは実に難しいような気もします…(笑)。

電子書籍化はどんどん進む

「断捨離」ブームに思うこと

後半の「読書の未来」は大変面白い。
森さんは、「電子書籍はいずれ、普通の「本」になる。それが将来像である。これが、現状である。そこまで、どれくらいの時間がかかるのかはわからないが、けして遠い未来の話ではない。」と述べています。
昨今の「断捨離」ブームを鑑みれば、物質としてモノを持たない生活がもてはやされているのも、僕は電子書籍化が進む一因のような気もしています。
断捨離の本質を僕は「移動の自由」であると考えています。
つまり、モノが無ければ場所に縛られることなく、遊牧民(ノマド)のように自由に仕事や生活をすることができる。
自由に移動ができれば、あらゆる人に会えたり、人が見たことの無いような景色に遭遇したりして見識が広がる…。
そんな「移動の自由」を制限してしまうものが、モノであって、それらを管理することだけでも精神的な負荷が掛かる…ということなのでしょう。
そこに「本」も含まれる。

ところで、僕が本を読むときには「厚さ」を指標にしながら読んでいることに気が付きます。
自分がいま、その本のどこら辺を読んでいるのかを、身体的に認知することも読書の一部なのではないでしょうか。
僕は森さんとは違い、1度読んだだけではインプットできないので2度3度同じ本を読み返すのですが、そのときにはやはり「この本のここら辺にこんなことが書いてあったような」と、本の厚さを頼りにページを探します。
対してKindleなどは、文字の大きさと比較してページ数されるので、ページの薄い本でもやたら分厚い本のようにも思えてしまいます。
結果として情報をただただ掻き込むときに電子書籍を使い、熟読するようにページを行ったり来たりするときには紙の本を使ったり。
気づけば家は山のように「紙つぶて」が重なり合い、散乱している状態ではあるのですが、それはもう僕の認知能力がそうさせている訳で、仕方ないと諦めている節もありますが。

書籍の限界費用は下がる。だけれど…

いっぽうで森さんは、電子書籍化が進むと、紙という媒体を通して「本」を生産した場合に生じていた職業が消滅する可能性があると説きます。
近未来の出版は著者が直接、読者に情報を届ける。
すなわち、中間業者を挟まずにコンテンツを届けるというカタチにいずれなるだろうと考えているのです。
そのうえで森さんが提唱するのは、紙で読みたい人は自分でコピーすれば良い、というもの。
この考えはジェレミー・リフキンの「限界費用」がゼロに近づく、つまり財を1単位生み出すのにかかる費用がゼロに近づくという考えに共通するのではないかと思います。
今までは本を生産することに多大な費用と労力がかかっていたところ、印刷・通信機器などの発達によりそれらを生産する費用が限りなく安価で、労働力も最小限となっていくのです。

森さんはそのような現状に配慮をしています。
紙の本と電子書籍の両方を出版してはいるものの、紙の本とは変わらない値段と発行日で提供するのだそう。
その理由は「作る手間がかかっているし、中間に入る流通業の関係もそれぞれに事情がある」から。
読者層の経済状況や出版業界の浮き沈みによって今後、作家側の配慮も変わってくるだろうとは思いますが、電子書籍の台頭は避けられないという森さんの見方には賛同したい。
今はまだ少数派ですが、探せばいくらでもインディーズのような形態で安価や無料で発行している電子書籍を見つけることができます。
また、現在の電子書籍は紙ベースで制作されていますが、電子書籍ではないと利用できない本なども出てくるかもしれません。
デバイスの進化か、コンテンツのクオリティ向上か…。
「紙の本」という、大きなハードルが取っ払われる劇的な変化があれば、一気に電子書籍のほうへベクトルが向くこともあり得るだろうな、と思います。

【紹介した本について】

カテゴリー 読書の記録タグ 読書著者 森博嗣形態 新書出版社 NHK出版Cコード 文学総記日本文学、評論、随筆、その他

この記事を書いた人

名無しのユータ

「読書が趣味」という訳ではないし、遅読で読解力も低い。けれど、読書を続けることでモノを考える力がやっと人並みに得られると感じ、なるべく毎日、本を紐解いている。
趣味はランニング、植物栽培など。